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大津地方裁判所 昭和30年(ワ)10号 判決

原告 井上良一

被告 国

主文

原告の請求はこれを棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事実

原告訴訟代理人は、被告は本判決確定の日より五日以内に大阪朝日新聞、産業経済新聞及び京都新聞に三段抜十五行に亘る紙面を使用し別紙記載の文案(但し謝罪名義人として坂安彦の氏名を省くも可)による謝罪文を一回宛掲載しなければならない。被告は原告に対し金百万円及びこれに対する訴状送達の翌日より支払済に到るまで年五分の割合による金員を支払え。訴訟費用は被告の負担とするとの判決並金員支払請求につき仮執行の宣言を求め、その請求原因として次のとおり述べた。

(一)  原告は井上組と称して登録(昭和二十六年十月三十一日京都府(ロ)第一三五号受付)せる土木建設業者であつて、京都土木厚生会長、関西コンクリート有限会社代表取締役、田中神社氏子総代、田中御輿会長等の職にも就き、京都、滋賀地方に於て相当の社会的信用を有する者である。

(二)  原告は訴外山品建設株式会社(以下山品建設と略称する)との間に昭和二十九年三月一日付書面を取交し、滋賀県野洲郡速野村及び同郡河西村に於ける農地復旧排土工事の下請負契約を締結し、下請負業者として右工事の施行に当つてきたところ、当時大津労働基準監督署長であつた訴外坂安彦は原告の右請負業態につき労働基準法第六条に違反する疑ありとして立件し捜査を行い、昭和三十年二月一日大津地方検察庁へ事件を送致した。

しかしながら原告に対する右違反容疑は全く不当なものであつて、原告は右工事の施行につき事業主として作業に従事する労務者を指揮監督し、事業用設備器材を使用し、専門的企画及び技術を以て自己の責任に於てこれに当つてきたのであつて、その業態に於て何等右違反容疑を受くべきところは存しなかつたのである。又捜査取調を受けるに際して原告は容疑事実を否定し、原告の業態を説明し極力あらぬ嫌疑を晴らすことに努力を払つたのであるが、監督署係官はこれに耳を傾けることなく遂に右の如く送検に及んだのである。原告の潔白であつたことは果して間もなく右事件の移送を受けた京都地方検察庁に於て昭和三十一年五月十四日犯罪の嫌疑なしとして不起訴処分に附したことによつて如実に証明された。原告に右の如き違反事実の存しないことは右結果を俟つまでもなく捜査の当初より坂署長以下係官に於ては認識していた筈であり、然らずとしても捜査に関して人権を尊重し謙虚な態度を持していたならば容易に認識し得たところである。原告を右事件の被疑者として捜査、送検したことは坂署長が独断、偏見に捉われ人権を軽視し不当に事件を作り上げたと見る他はない。

(三)  のみならず坂署長は山品建設と通じ、原告と山品建設間の前記下請負契約を破約せしめる目的を以て昭和三十年一月三十一日坂署長名を以て山品建設へ「賃金の支払について」と題する戒告書面を送付した。これにより山品建設より同年二月八日契約解消の通告を受け、遂に不当にも契約解除せしめられた。

(四)  坂署長の違法行為は以上にとゞまらず更に次の如く原告に対する容疑事実を新聞紙上に大々的に著るしく原告の名誉を毀損する言辞を以て掲載せしめた。即ち昭和三十年二月一日午後一時頃部下の山下庄一労働基準監督官に命じてわざわざ朝日新聞記者牛田佳夫外数新聞の記者を署に招き、原告の住所及び氏名を明示し原告に対する容疑事実の全貌送検する事実等を、原告を「労働ボス」「ピンハネ」「中間搾取」呼ばわりして詳細に公表せしめた。各新聞社は二月一日乃至三日の紙上に、原告が「労働ボス」で不法に「二百万円ものピンハネ」をした(朝日新聞)、「中間搾取をし九十九万円をピンハネ」した(産業経済新聞)、「九十九万円を使いこむ」「悪請負業者」(京都新聞)、「人夫の賃金ピンハネ」「九十九万七千円をピンハネしている外使途不明の工事費も相当ある見込」(中部日本新聞)、「人夫賃九十九万円ピンハネ」(滋賀新聞)等の語句を報導記事中の表題として又は掲載文中に原告を嘲侮軽蔑する文辞として羅列し、殊更に原告を侮辱する記事を掲載した。これら侮辱的語句が山下監督官の記者に対する右公表の際に用いられたことは労基法第六条が相当難解な法律であり単に第六条違反だと告げただけではその理解が困難であらうことに想到すれば容易に肯けるところである。仮りに山下監督官がかような侮辱的言辞を以て公表したものでないとしても、元来日本の商業新聞には他人の名誉尊重よりも無神経に若しくは興味本位に所謂ニユースバリユー的記事を掲載したがる人権無視の思想が今尚宿つている現状に鑑みるとき、新聞印刷迄の段階に於てどのような表題が付され、どのような評論が掲げられ、これが為に他人の名誉が毀損されるかも判らないということは予見すべきであり、少くとも予見し得らるべき事柄であるから右各掲載記事と山下監督官の公表との間には因果関係なしとはできない。凡そ国家公務員は職務上知ることのできた秘密を漏らしてはならない(国家公務員法第百条、労働基準法第百五条)のみならず労働基準法違反の罪の捜査に関し司法警察官の職務を行うに際しても被疑者の名誉を尊重しその秘密を秘匿すべき職務上の義務がある(労働基準法第百二条、刑事訴訟法第百九十六条)。而して何人も有罪の宣告を受けるまでは無罪の推定を受け、斯くかくの違反事実の被疑者として取調べられ送検されるとの不名誉な事実が世上に公表せられることを欲しない。これを秘匿保護さるべき基本的人権を有している。況して坂署長、山下監督官は国家公務員として、捜査官として職務上知り得た秘密を秘匿すべき義務を負つているものであつて、右の如く新聞記者を招いて公表したことはその公表内容と相俟つて如何とも許し難い重大な違法行為である。

(四)  以上坂署長、山下監督官の一連の違法行為によつて原告は左の損害を蒙つた。

(1)  原告の名誉を著るしく毀損失墜せしめたことは容易に金銭補償を以て慰藉されるところではないが、後述の名誉回復手段と共に慰藉料として金三十万円の支払を求める。

(2)  原告は本件違法行為を受ける前は毎年国の事業を始め京都府、京都市、宇治市、舞鶴市、綾部市、宮津市、滋賀県、大津市その他自治団体及び各地土地改良区、住宅公団大会社の土木工事の指名入札に請負人として招かれその入札の機会を得てきたが、本件違法行為以後は原告があたかも極悪な労働ボスの如く伝えられた為指名入札の機にも排斥されるようになつた。指名入札に招かれていた当時原告の年間請負額は約一千六百万円程度でありこれによる利益は百六十万円位を得ていたので、本件違法行為が無かりせば当然年々右利益額相当の収益を収め得たのであるから、得べかりし利益の喪失による損害として内金四十万円を請求する。

(3)  原告が山品建設より下請した排土工事量は速野村今浜地区に於て六万三千四百六十三立方米、同村東洲本地区及び河西村笠原地区に於て合計十四万九千九百四十立方米であり、一立方米につき工事単価は今浜地区につき百十円、洲本、笠原地区につき百八円とそれぞれ暫定的に定めた。しかし右単価を以ては到底採算のとれないことは明瞭であつたので、山品建設と原告間で、山品建設が工事註文者の土地改良区より単価増額を得次第元請単価の八割五分を遡つて支払うとの約定をしていた。その後昭和二十九年四月中頃右元請単価の増額は実現され山品建設の請負単価は一立方米につき百七十八円六十一銭となつた。而して原告は既に今浜地区に於て三万九千六百七十二・六立方米、洲本、笠原地区に於て九万六千五百十立方米の排土を了えたが、右約定に従えば原告の既成工事に対する増額分として金九百七十四万九千九十八円の支払を受け得ることとなる。更に残存排土工事を完遂すれば右増額せられた下請単価により計算するときこれにより原告の得らるべき利益は約三、四百万円にも及ぶであらう。これらの利益は山品建設が右約定による増額せられた単価による支払を実施せず、不当に契約解除の挙に出でた為であるが、その因は前叙の如く坂署長の戒告書面を以て破約せしめんとしたことに存するのであるから、右得べかりし利益の喪失による損害中金三十万円の支払を求める。

(4)  以上金員の支払を得るも原告の失墜せしめられた名誉の回復を得られないので別紙文案による謝罪文を新聞紙上に掲載せしめることを求める。

と陳述し、被告の答弁に対し原告の叙上主張事実に反する被告主張事実はすべて否認すると述べ、被告主張の如く仮りに朝日新聞に関する限り坂署長、山下監督官の公表に基くものでなく、記者が独自に探知取材したものであるとすれば、原告は坂署長、山下監督官等が捜査を行うに当りこれを密行すべきである(刑事訴訟法第百九十六条、労働基準法第百二条)に拘らず、これに違反したが為に記者に探知されるところとなつたもので、この点に故意乃至過失があると主張する。又被告は記事の公表は労働者の啓蒙を図る為に執られた正当な行政措置であると主張するが、その為に本件の如く原告の氏名を明記し且つその具体的犯罪事実を新聞公表し原告の名誉を犠牲に供する如き方法によらずとも他に方法はあるのであつて本件記事の公表を正当化し得るものではないと述べ、立証として甲第一号証、第二号証の一、二、第三乃至第六号証、第七号証の一乃至四、第八号証、第九号証の一乃至三を提出し、証人牛田佳夫、稲田寿夫、山下庄一、福島洋(第一、二回)、山品啓録、徳永政勝、今井徳治郎、田中栄治、石田好一の各証言及び原告本人尋問の結果を援用し、乙第一号証、第二号証の一乃至十三、第三、第七号証の各成立を認め、第四、第五号証は謄本認証部分のみ成立を認めるがその余は不知、第六号証の一、二及び第八号証の一は不知第八号証の二は原告名下の印影は原告の印顆によることは認めるが成立を否認すると述べた。

被告指定代理人は「原告の請求を棄却する。訴訟費用は原告の負担とする」との判決を求め、答弁として、原告の主張事実中原告が井上組と称し登録建設業者であること、訴外坂安彦が当時大津労働基準監督署長であつたこと、原告がその主張するような工事を請負い労働者が右工事に従事していたこと、大津労働基準監督署が原告に労働基準法違反事実があるとして昭和三十年二月一日大律地方検察庁へ被疑事件として送致し、それが後に京都地方検察庁へ移送せられ同庁で同三十一年五月十四日犯罪の嫌疑なしとして不起訴処分に付せられたこと、右坂署長が部下の労働基準監督官山下庄一に命じ同三十年二月一日朝日新聞外数新聞の記者を招致し前記原告に労働基準法違反事実の存すること及びその嫌疑の内容、被疑事件として検察庁へ送致する旨を公表したこと及び右原告の被疑事件に関する記事が同年二月一日乃至三日付の朝日新聞其他の新聞紙に掲載されたこと、同年一月三十一日坂署長が山品建設社長宛「賃銀不払事件について」と題する戒告書を発送したことはこれを認めるがその余の事実は争う。大津労働基準監督署は同二十九年十一月八日今井政一他十一名の労働者から賃銀不払の事実の申告を受けたので同署労働基準監督官山下庄一が調査検討したところ、右申告者等は滋賀県野洲郡速野村今浜土地改良区東洲本笠原土地改良区の土木工事に従事している労働者であつて、右土木工事は山品建設が右改良区からこれを請負つたものであつてその一部を原告が下請し、同人は更にこれを労働者の班の代表者に下請させるという形式を採り申告者等は班の代表者からその賃銀を受領する仕組になつていたところ、右班長の一人である藤村繁が原告から受領した班の賃銀を拐帯逃走したため申告者等の賃銀が不払となつていることが判明した。且右工事については右のように数次の下請負の形が採られているが、実際には労働者の指揮監督は山品建設が行つており原告は労働者を指揮監督することなく単に労働者の雇用のあつせんをして自己が請負代金名義で山品建設から受ける金員と自己が班の代表者に交付する金員との差額を利得し以て労働基準法第六条に違反している嫌疑が認められた。そこで同署では右被疑事実につき捜査を開始し、関係者から事実や言分を聴取したところ同条違反の嫌疑が濃厚となつたので遂に同三十年二月一日大津地方検察庁へ事件の送致をした。ところが同日午前十一時頃右事件について取材活動をしていた朝日新聞大津支局所属記者牛田佳夫から山下労働基準監督官に対し電話をもつて「送検したそうだが井上組の利得額はいくらか」との問合せがあり九十九万七千円である旨答えたところ既に二百万円として記事の原稿を送つたとのことであつたので、同人は本件被疑事件に関する記事が各新聞に登載されることの必至な事を察し右牛田記者に対し「それなら正確な事実を発表するから誤つた報導をしないように」と要請すると同時に坂署長の命によつて大津市所在の各社の新聞記者に連絡して集合した記者達に対して同日午后一時頃「昭和二十八年九月二十五日の颱風第十三号により野洲川の堤防が決潰し滋賀県野洲郡河西村笠原、同郡速野村東洲本及び同村今浜の農地約三百三十反が土砂に覆れたのでこれを復旧排土するため被害農家によつて速野村今浜土地改良区並に東洲本笠原土地改良区が設立せられ、右土地改良区は同二十九年三月一日京都市上京区丸太町通寺町東入る信富町山品建設(社長山品啓録)に対して右排土工事を請負わせ同社は同月五日右工事に着手したが、その際京都市左京区田中馬場町一番地の原告に対して右工事の一部を範囲を示さず排土量一立方米当り金百十円(今浜地区)又は金百八円(東洲本笠原地区)を支払う約定で下請契約をした。然るに原告は労働者が自主的に編成する班の代表者を土木請負業者と看做す方法によつて吉田春吉外七名に対し排土量一立方米当り金八十五円(右吉田班のみは軌条を提供しているので金九十円)の約定で再下請の形を採り自らは直接労働者を指揮監督することなく工事施工に必要な機械施設の一部を提供したのみで、その間の利得を得ようとし、実際には山品建設が右労働者の労務管理と指揮監督をして工事を実施したにも拘らず、原告は法定の除外事由なくして着工の日より同二十九年九月末日までの間に右労働者の排土量十五万四百九十八立方米七五に対して山品建設が原告に支払つた金千六百三十六万四千五百七十五円の内から金九十九万七千円を違法に領得したとの疑が濃厚となつたので同署では同日原告に対する労働基準法違反の容疑をもつて大津地方検察庁へ事件の送致をした」旨の公表をした。但し朝日新聞の記事のみは同社牛田記者が右発表前に既に記事の原稿を送付していたのであるから右発表によるものではない。更に坂署長は前記今井政一等の申告を端緒とする前記調査の結果に基き労働基準法の励行を計り、山品建設に対して注意を与えるため原告主張のような書面を送付した。そもそも坂署長は一面司法警察官として司法行政に携わる反面大津労働基準監督署長として労働基準法の実施に当る行政庁であるから個々の違反事件を検挙するにとゞまらず関係者の啓蒙又は一般予防の任務を有していたのであるが、当時本件と同種の事案が他にも存在すると推察されたし且つ将来もこの種事案の発生の可能性が予想され本件事案の処理については事件の被害者と目される多数の労働者及びその他の利害関係者等から多大の関心が寄せられていたので坂署長は労働関係の正当化及び社会的混乱の平静化を計るため右の者等に当局の捜査の結果と処置とを知らせる要があると認めると共に、この種事案に対する社会的関心を喚起し延いて一般予防ないし社会の啓蒙を計りそのためには限られた人員経費等の点より本件事案の実例につき発表を行うことが何よりも有効適切と考えた結果右の発表を行つたものである。従つて本件のような職務に基く発表については国家公務員法第百条の秘密漏泄禁止の規定は適用がないばかりか本件のような起訴前の被疑事実は社会の秩序を紊り公共の福祉を侵すものであつて、いずれ社会の糾明を免れぬものであるから、これを以てたとえ私人の秘密と言い得るとしても一般の秘密とは甚だその趣を異にしており刑事責任の場合にもこの種の事案は(徒らに他人の名誉を毀損することを目的とするような場合は別として)専ら公益を目的とする限りこれを公然摘示しても名誉毀損とならぬものとされており(刑法二百三十条の二)その秘密は公共の目的の前には保護に値しないものであるから坂署長の右発表は職務に基く正当行為というべきであつて、発表の範囲や方法に多少の不穏当な点はあるとしても、全体的には甚しく当を欠いてはいない。尚坂署長が山品建設に対して「賃銀の支払について」と題する文書を送付したのは本件被疑事件の捜査にともない同社の労働者に対する賃銀支払方法が労働基準法第二十四条の規定に違反していると認められ、その労働者の雇傭の形態は同法第六条違反を生じさせるおそれがあるものと思料されたので、坂署長は同社に対し右状態の是正を求めるため右文書を送つたものであるからその行為も亦職務に基く正当な行為であること明らかであつて、何等違法の点はない。要するに新聞に公表した行為も戒告に出でた行為もいずれも坂署長が業務上公益を目的として為した正当行為であつて、原告に損害を与えることを目的として為したものでなく、又同人が原告に損害を与える目的で為すべき何のいわれもない。従つて原告の本訴請求は失当であると陳述し、立証として乙第一号証、第二号証の一ないし十三、第三号証ないし第五号証、第六号証の一、二、第七号証及び第八号証の一、二を提出し証人坂安彦、山下庄一、徳永政勝、田中栄治、高橋寅造の各証言を援用し甲号各証の成立を認めた。

理由

原告が井上組と称する土木建設業者であつて、訴外山品建設株式会社より同山品建設が滋賀県野洲郡速野村字今浜所在の今浜土地改良区及び同村字東洲本並河西村字笠原所在の東洲本笠原土地改良区より請負つた農地復旧排土工事の下請負契約を為し、該工事が進められてきたところ、(一)大津労働基準監督署長坂安彦は原告の右下請負業態を労働基準法第六条に違反する疑ありとして捜査を進め、昭和三十年二月一日原告に対する右法条違反被疑事件として大津地方検察庁へ送致し、(二)同日午後一時頃右坂署長は部下の労働基準監督官山下庄一に命じ、朝日新聞社外数社の新聞記者を右監督署に招き、原告に対する違反容疑事実の内容並びに検察庁へ事件送致した旨の公表を行つたこと、右各新聞社が原告主張の如き記事を二月一日乃至三日の新聞紙上にそれぞれ掲載したこと、(三)右事件送致の前日である一月三十一日坂署長名義を以て右山品建設に対し、原告の業態は実質的には下請負とは認められず、単に労務供給業者と見られ労基法第六条違反の疑が多分にあるから元請負業者として善処せられたい等の内容の「賃金の支払について」と題する戒告的書面を発したこと及び右被疑事件はその後京都地方検察庁へ移送せられ、同庁に於て昭和三十一年五月十四日犯罪の嫌疑なしとして不起訴処分に附されたことはいずれも当事者双方に争のないところである。

原告は右の如く原告に労基法第六条違反の事実が全く存しないにも拘らず右(一)の如く原告に右法条違反の容疑をかけ捜査立件送致して被疑者扱いを為し原告の人権をじゆうりんしたこと、(二)の如く容疑事実を公表して殊更原告に対する屈辱的記事を掲載せしめたこと、(三)の如く戒告的書面を発し原告と山品建設間の下請負契約を破棄せしめたことは、国家公務員として坂署長、山下監督官等が公権力の行使に当り故意に然らずとしても過失により違法に原告に損害を蒙らしめたものであるから、国家賠償法により被告国に賠償を求めると主張する。

よつて先づ(一)原告を労基法第六条違反の被疑者として捜査し、検察庁へ事件送致したことが違法であるか、について判断する。

前記の如く右被疑事件が犯罪の嫌疑なしとして不起訴処分に附せられた結果に着目すれば右違反事実は存在しなかつたことを一応推定し得るであらう。従つてそもそも当初よりさような違反の嫌疑をかけ捜査、事件送致すること自体が不当であつたかの如く見受けられるかもしれない。しかしながら右理由による不起訴処分そのものが果して正当と認められるかは検討を要するところであり、又正当としても判断の時期、判断の資料等を異にする爾後の右不起訴処分を以て当然に右被疑事件の捜査、事件送致をその当時に於ても違法なものであつたと推認することの許されないことは云う迄もない。捜査、事件送致が違法であるか否かはその時期に於けるそれに供せられた判断資料に立脚して論定せられなければならない。従つていまこの見地より本件について考察する。

成立に争のない乙第一号証、同第二号証の七、証人山下庄一、坂安彦の各証言によれば、原告に対する右被疑事件の捜査の端緒となつたのは、前記土地改良区の農地復旧排土工事に従事していた労務者の班長が労務賃金の支払を為さず拐帯逃走したので、被害労務者よりこれに対する行政救済の申立を大津労働基準監督署に為したことに始まり、これに基き同署の調査したところ、労務者に対する賃金の支払過程に於て元請業者である出品建設と労務者との間に介在する原告の業態につき疑惑を抱くに至つたことが認められる。而して成立に争のない乙第二号証の一乃至六、同号証の八乃至十三、同第三号証、同第七号証謄本作成名義につき争のなく、原本の存在並にその余の作成部分につき真正に成立したものと認める乙第四、五号証、証人徳永政勝の証言によりその成立を認められる乙第六号証の一、二、同第八号証の一、二、前記乙第一号証及び証人山下庄一、坂安彦の各証言を綜合すれば、右捜査の結果として、前記各土地改良区と元請負者である山品建設との請負契約に於ては土地改良区の承認を得ることなく工事の下請負を為さしめることを禁じており、原告をして下請負をせしめるについて土地改良区が右承認を与えた事実はないにも拘らず山品建設が原告に対し下請負せしめるに至つた主な理由は、山品建設は土地改良区より請負つて昭和二十九年三月より着工し、今浜地区については同年六月十五日迄、東洲本笠原地区については同年九月十五日迄に完成することを約し、植付時期迄に短期に野洲川氾濫により流入した広範囲の面積に及ぶ排土を行い農地を復旧する必要があり、これに要する労働量は多大のものであつて山品建設自身に於て調達することが至難であつたので、労務者を獲得するが為に原告に下請負をせしめるに至つたものであつて、原告の下請負は建設業法第二十二条に反するのみならずその下請負契約書(乙第七号証)も同法に照し頗るづさんなものであり、而してその下請負の実体は、原告は本件工事関係を主として訴外福島洋、同石田好一の両者に当らせ、福島洋が各地に労務者を擁する土木業者を募集し、これら業者を各班長として原告の下請負した地区を細分し、割当各地区の排土工事を各班長との間で更に下請負せしめ、原告は山品建設が土地改良区より請負つた工事設計図面上の堆積土量を基準(現実の堆積土量と関係なく)とし、山品建設よりはその排土一立方米につき東洲本笠原地区に於ては金百八円、今浜地区に於ては金百十円で下請負し、右各班長には同右基準により一律に金八十五円、但し東洲本笠原地区のうち吉田、阿佐美班に対しては同班自らが作業用の軌条を持込んでいるのでその損料をも加えて金九十円を以て下請負せしめ、現実に排土作業に従事する労務者に対する賃金は最終下請負者である班長の責任に於て運土距離の遠近に応じ定められる割合に従い現実の排土量を基準として支払われる仕組となつていたこと、従つて現実の堆積土量と工事設計図面上の堆積土量との間には乖離があり、この乖離部分は前者が後者より大きいときは下請負者である各班長の損失として班長の負担に於て労務賃金の支払が為され、逆に少ないときは各班長の利益として収められることとなり、いずれにしても原告は労務賃金の支払に関しては契約上各労務者に対し直接何等の責任をも負う関係になつておらず、たかだか右乖離により班長の損失を招く場合に同業者間の所謂仁義の問題として放任することもならず、いくばくかの補填をしてやる程度であつて、要するに原告は各班長以下多数労務者を自己の被傭者として掌握する立場になく、計算上は山品建設との下請に際し負担することを約した若干の器具器材の損料飯場建設費その他の諸経費を控除した外は前記方法による中間利益を収め得る立前になつていたことが認められ、排土作業の技術的指導に関しては山品建設より技術指導員数名が常駐派遣せられ、その指導下に班長に統轄される各労務者が排土作業を遂行し、労務賃金の支払経路は毎月二十五日現在の月間排土総量を改良区立会の下に山品建設の係員が測定し工事出来形調査書を作成し、これによつて山品建設の現場事務所に於て原告側の福島や各班長に工事出来高が支払われ各班長より労務者に支払われるのであるが原告側に一括支払の為されることは少く、山品建設より直接各班長に前記割合による出来高金が支払われる場合が多く、又山品建設は日々の就労状況を調査する為出面帳を作り各班の労務者名簿賃金台帳、作業日報等の提出を求める等して直接各労務者の掌握に努め、各労務者は山品建設の労務者として監督官署へ届出でを為し、飯場に就業規則、寄宿者規則等を定め労務者の災害補償事項を担当する等形式的にも実質的にも山品建設が各班長以下の労務者の使用者として事業を行うものであつて、この間に労使関係が認められこそすれ原告が各労務者の使用者として労働を掌握指揮し下請人としての責任に於て事業を行うものとは到底認められず、原告の本件工事に関し行つたところは原告自らは本件工事の施行に携わらず、前記福島、石田両者のみに当らせ、前記の如く各班長以下各労務者を募集した外は、これら両名は現場に常駐することなく時折現場に来り各班労務者の生活の世話をする程度のサーヴイス的役割をして作業を山品建設と各班労務者との手によつて進められるのを見守り出来高に応じ前記の如き基準による中間利益を収める程のことであつて、前記の如く飯場数棟を建設し、枕木、トロ箱、軌条、スコツプ等若干の器具器材その他工事用消耗品費、労務者募集の為の旅費日当等を負担することはあつてもその限りのことであつて、それは単に原告の収める中間利益が右諸経費分の減少を見るに過ぎず、原告のかような工事関与は山品建設との下請負の不誠実な履行によるものか或は当初よりの目論見であつたかはさて措き、実質的には労務者の供給業に重点の置かれていたことを認めるに充分であつたことが認定できる。以上認定事実は大津労働基準監督署に於て原告を労基法第六条違反被疑事件として捜査し検察庁へ事件送致する迄の間の捜査資料に基き認められる事実であつてその限りに於ては右認定を左右するに足る証拠は本件に於て存在しない。而して捜査に際し被疑事実を裏付けんが為に捜査資料を取捨歪曲したり或は当然に予想される被疑事実に反する資料の捜査を懈怠した等の如き事実は本件に於ては窺われず、被疑者である原告乃至福島洋に対しても任意の供述を聴取し、前記山下証人の証言により明らかな如く検察官の指示を受けつつ捜査を進めてきたのであつて捜査上何等違法の点は認められない。然らば坂署長、山下監督官等が原告に対し労基法第六条違反の嫌疑をかけたことは至当なことであつて、その捜査を行い事件送致したことは当然為すべき捜査官としての職務行為を果したものと認むべきである。右被疑事件がその後京都地方検察庁に於て犯罪の嫌疑なしとの理由で不起訴処分に付せられたことは前記の如くであるが、右理由による処分がその後の新たなる捜査資料に基き結論せられたものであるとすれば、その判断の当否はそれの検討に俟たねばならないが、本件証拠上その判断に供せられた資料の全貌は明らかでないからいま右処分の当否を判断することは不可能であるが、本件に於て提出されている成立に争のない甲第七号証の一乃至四検察官作成の各供述調書等を資料とする限りに於てはこれら資料を前記監督署の捜査資料と対比し仔細に検討すれば、同一人の供述内容が個々の具体的事実に於て相異なるところ多く全体の趣旨に於ても著るしく相違しているものを見受けるのであるが、監督署の細密は捜査によつて生ずる前述認定の如き容疑の中核的な諸事実を充分に解明する迄の努力が払われたとは見受け難く、前後供述の異る諸点についての糾明を避け容易に右結論を導いたとの感を禁じ得ない。従つて右甲第七号各証によつても原告に対する右嫌疑事実を払拭するに足るものとは為し得ず、なお依然として違反事実の嫌疑は存するものとしなければならない。

当裁判所の判断は以上の如くであるから、原告に対する労基法第六条違反被疑事件として為した右監督署長、山下監督官等の捜査、事件送致処分には何等の違法なく、従つて被告国にこの点に関する賠償責任は存しない。

次に判断の便宜上原告主張の(三)坂署長名義を以て山品建設に発した戒告的処置が違法であるかについて考察する。

労働基準監督署が労働基準法の規制しようとする労使間の適正な法秩序の励行を指導監督することを使命とする行政官署であることは言う迄もない。従つてこれに反する労働関係が行われていることを発見したときは当然の職務行為としてその違法事実を指摘して適法な労働関係を遵守せしめるよう戒告等の処置を執るべき義務がある。前認定の如く坂署長は賃金不払に発端し捜査の結果原告の本件排土工事関与を労基法第六条違反行為と認めたのであるから元請負業者である山品建設に対しその旨を指摘して戒告的書面を発したのは当然であつて、右文書である乙第一号証の文意に徴しても亦証人坂安彦、同山下庄一の各証言によるも職務執行々為以外の原告主張の如き他意ある行為とは認められない。従つてこの点に於ても坂署長の右処置に何等違法ありとは言い得ない。

最後に(二)新聞記事として被疑事実等を公表した点を違法とすべきやについて判断する。まず新聞記事公表の経過について見るに、証人坂安彦、同山下庄一、同牛田佳夫、同稲田寿夫の各証言を綜合すれば、前記の如く原告に対する労基法第六条違反被疑事件を大津労働基準監督署に於て山下監督官等が取調捜査中、取材活動の為同署へ出入していた朝日新聞大津支局記者牛田佳夫はこれを察知し山下監督官との談話中に事件内容に触れ或は机上の捜査書類を盗見する等して次第にその全貌を探知し、昭和三十年二月一日午前中記事として送稿するに際し、原告の労基法第六条違反行為による領得額を確かめる為山下監督官に電話をかけたが、同記者の見当付けていた領得額は捜査結果を遥かに上廻つていたので誤つた記事の掲載されることを避け、画一的に正確な報導が行われるよう、且つは本件被疑事件の公表を通じて世上往々見受けられる同種業者のこれに類似する不適正な労働関係の戒めとするよう啓発的見地より新聞記事として掲載する為に公表することとし、同日午後坂署長は山下監督官をして、朝日、毎日、読売、中部日本、産業経済、京都等六新聞社に電話し、各社記者を署へ招き、原告に対する労基法第六条違反被疑事件の事件送致書記載事実を骨子として原告の住所氏名年令職業を明示して被疑事実の内容及び送検した旨を公表し、これに基いて各社が前述の如き各記事を新聞紙上に掲載するに至つたこと、但し朝日新聞のみは右牛田記者が独自に探知取材したところを既に公表前に送稿していたので該記事が掲載されたのであつて、右公表に基くものでなく、他の諸新聞についても右の如く山下監督官より事件送致書記載の事実を骨子として口頭により公表を受け、その際同監督官より労基法第六条違反の中間搾取の意義についての説明を受けたが、各自の理解するところに従つて記事を作成送稿し、これを受けた各新聞社整理係は独自の立場から見出しを附し最終的に掲載の為記事の整理を為し新聞記事として掲載されたのであつて、掲載各記事は朝日新聞の領得額の点を除き概ね公表事実を報導するものではあるが、記事公表と新聞記事との間には右の過程を経る干係上その表現文辞に於て迄一致することを保し難く現に右公表の際山下監督官の使用していなかつたと認められる「労働ボス」「ピンハネ」「悪請負業者」等の語句を見出し等に使用して掲載されるに至つたものであることが認められる。

さすれば新聞記事中「労働ボス」、「ピンハネ」、「悪請負業者」等の侮辱的語句の掲載は山下監督官の右公表に際し同監督官の使用したものではなく記者乃至は新聞社整理係に於て用い記事中に掲載したものであつて、新聞社が一般に興味本位的な修辞を用いて新聞記事を掲載する傾向があるとしても、本件の場合右監督の意思に基かず他の者の独自の思慮により表現されるに至つたかような侮辱的語句の掲載即ち侮辱的意思の表動を右監督官の公表と因果関係ある事実とは認め難い。而してこの部分を除外すれば、右被疑事実並に送検事実の公表は被疑者である原告の氏名年令職業住所を明示して新聞記事として掲載せしめることを目的として為されたものであるところ、右公表は未だ公訴の提起されない人の犯罪行為に関する事実として公共の利害に関する事項であり、公表の目的が前段認定の如く労働基準監督署当然の職責に属する同種の不適法な労働関係に対する警告啓発的処置として執られたもので専ら公益を図る目的に出でたものと認むべきであるから、公表事実にして真実性の証明を得るならば、右公表は刑法第二百三十条の二により名誉毀損罪を構成せず、同時に民事上の不法行為をも構成しないものと解すべきところ、右公表事実が公表当時真実と疑うに充分であつたこと、その後嫌疑なしとの理由を以て為された不起訴処分当時に於てもなお依然として容疑事実を払拭するに足らず、いまなお違反事実の嫌疑の存在を推認し得る本件に於ては、被疑犯罪事実の存在につきその証明があつたものと云わねばならならない。

ところで労働基準監督官は国家公務員として職務上知り得た秘密を守るべき義務(国家公務員法第百条、労働基準法第百五条)を有し、又労働基準法違反事件の捜査に関し司法警察官の職務を行うについても、被疑者その他の者の名誉を害しないように注意すべき義務(刑事訴訟法第百九十六条)がある。前述の如く各新聞記者を監督署へ招き原告に対する被疑事件の内容、送検事実を原告の氏名、年令、職業、住所を明示して一斉に公表して新聞記事として掲載せしめたことは右義務の遵守として妥当なものであらうか。この点については前認定の如き警告啓蒙的手段としてはなお他に執るべき方法があつたであらうし、尠くとも原告の氏名住所の公表はたしかに穏当を欠くものであつたことは看過できない。しかしながら右義務の違背は国家公務員ないし司法警察官としての服務規律の不遵守であつて、その違背に基く行為の内容が刑法上の名誉毀損罪や民事上不法行為を構成する場合は別として、服務規律の違背即ち不法行為を構成するものとは断じ難いのであつて、原告に対する被疑事実の公表殊にその氏名住所等の発表によつて被疑者である原告の名誉を害した事実があつてもその一事は即ち訓示規定の違背であつて、違背者は場合により身分上戒飭の対象とせられることはあつてもその違法は直に不法行為と連結するものではなく、要はその服務規律違背の態様(動機を含む)程度或は被害の大小等凡ゆる事情を参酌して尚公務員の故意又は重過失に因り損害を与えその被害が訓示規定違背を敢てした他の要請を上廻る場合に始めて考慮せられると解するのが相当である。

之を本件に見るとき前段認定の如く原告の行為は京都地方検察庁の不起訴処分に拘らず、尠くとも送検当時の資料から十二分に労基法第六条違反の嫌疑を有し従つて一般予防と啓蒙の職責を有する労働基準監督署長が同種の行為の絶滅を図り、労働者が不当に賃金の中間搾取を受くることなきことを念願して事件を公表し、敢て真実を一般国民に周知撤底せしめんとしたことは当然であつて、司法警察官たる職責と労働関係の規正指導の行政官庁たる職責の抵触するところ後者を重しと認めて敢て刑事訴訟法第百九十六条の違背をなした同署長の態度は不当とは認め難く、原告の氏名住所等の公表はこの場合必しも必要の筈はないので之を公表した方法は妥当を欠くけれども、この程度の違背は身分上の戒飭の対象となることはあつても原告に対する不法行為となすには足りないのみならず、その氏名等の公表に至つても前段認定の通り既に朝日新聞社記者に事件を探知せられ誤報せられる懸念のあつたところから事実を公表するに至つた事情を参酌するとき、氏名等の公表も余儀ない事情にあつたと認めるのが相当である。

原告は前記の如く朝日新聞社牛田記者に記事を探知取材された点に故意過失があるとも主張するが、そうだとしても畢竟秘密保持義務の上に於て責むべきものあることを云うに帰し、その違背が本件に於て主張する不法行為自体の成立を招来することにならないことは右と同理である。

以上原告の不法行為として主張するところはすべて失当であるから、爾余の主張事実について判断を加えるまでもなく被告国に賠償義務は存しない。

よつて原告の請求を棄却することとし、訴訟費用の点について民事訴訟法第八十九条を適用して主文の通り判決する。

(裁判官 小野沢竜雄 林義雄 古川秀雄)

謝罪文(一号活字)

当署は曩に大阪朝日新聞その他の新聞紙上に貴殿が労働基準法違反の廉で送検せられた旨の記事を発表させ貴殿の信用、名誉を著しくき損したことは誠に申訳ありませんでした。

仍て茲に深く陳謝の意を表します。(四号活字)

昭和 年 月 日(五号活字)

大津労働基準監督署長 坂安彦(一号活字)

京都市左京区田中馬場町一番地(五号活字)

井上良一殿(一号活字)

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